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2025/07/18 ブログ 疾病別ブログ スタッフブログ
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小林正観さんの心に響く言葉より…

日本の社会全体を覆っている、「幸せ論」というものがあります。

これは小学校、中学校、高校、大学、さらには会社、さらには社会全体、さらにはどこの家庭も同じように考えている幸せ論です。

社会全体で述べられている幸せとは、学校教育で行っている幸せ論とイコールです。

どういう幸せ論かというと、足りないものをリストアップして、その足りないものを手に入れたときは幸せだと思ってよい。

しかし、手に入らないうちは、ずーっと不幸なのだという幸せ論です。

リストアップした10個を、手に入れ終わったとしましょう。そうすると、この幸せ論は、また次に、同じメカニズムで人に同じ要求をするのです。

「さらに足りないものを10個挙げなさい。そして、その10個を手に入れなければ、幸せではないのです。それが手に入らないうちは、ずーっと不幸だと思いなさい」

こういう仕組みが、今までの社会全体を覆っている幸せ論でした。

リストアップした、手に入っていない10個のものを手に入れるためには、人の5倍も10倍も努力することがんばること。

そして、がんばって手に入れたら、それはよいことであり、幸せを手に入れたと思ってよい。というふうに考えさせられている、洗脳されているのが、今の幸せの仕組みです。

社会全体がそういう幸せ論、そういう不幸論を教え込んだにもかかわらず、100%の人がそうなったわけではないのです。

1%の人は違う価値観で、違う幸せを見つけ出してしまいました。社会全体が同じことを教えているのに、100%の人がそういう考えにはならなかったことには訳があるのです。 

そのような価値観にならなかった1%の人は、病気になったり、事故に遭ったり、災難・トラブルに巻き込まれた経験のある人たちでした。 

この経験をもとにして病気をした人、事故に遭った人、災難・トラブルに巻き込まれたことのある人というのは、なにもない平穏な日々の積み重ねが、どれほどありがたくて幸せであるかということに、体験的に気がついてしまったのです。 

普通に朝が来る。そして、そこには湯気の立ったみそ汁があって、湯気の立ったごはんがあって、納豆があり、たくあんがあり、梅干しがある。

そのような普通の朝食を取り、普通に電車に揺られ、普通に会社に着き、普通に仕事をし、同僚と冗談を言い合いながら笑い、おいしいコーヒーを飲み、そして、夕方になって帰ってくる。 

幸せとは、自分の心の中に、ただそれに気がつくところにあるのだということを知ってしまった人たちが、1%存在するのです。

すべてのことはあたりまえではないのです。

すべてのことはすばらしくありがたいことなのだ、と気がついたら、そこには山ほど幸せが転がっています。

どれほど数えても数え切れないほど幸せが転がっています。

何日か断食をしたあと食べた、おかゆのおいしさは格別です。何もおかずがなくても、梅干し一粒とおかゆがあれば、ありがたくて涙が出そうになる。

食事を、最高においしく食べるコツは、「空腹」。

病気になってはじめて、健康のありがたさに気づく。

空腹やひもじさを体験してはじめて、三度の食事がたべられるありがたさに気づく。

難があったとき、ありがたさに気づく。

「有難い」という「有(あ)ることが、難(かた)い」こと。

有ることが奇跡のようなこと。

我々が何もなく、普通に生活できることは、奇跡のようなありがたいことなのだ。

「足りないものをリストアップして、その足りないものを手に入れたときは幸せだ」という幸福論は、「夢」や「目標」を持ち、それを達成すること。

人生の前半生は、「夢」や「目標」を持つのもいいが、後半生はそれだけでは面白おかしく暮らすことはできない。

前半生は、風や水の流れに逆らって必死に進む生き方。

後半生は、風や流れに逆らわずに生きる「お任せ」の生き方。

それを「行雲流水」という。

行く雲、流れる水に逆らわず、ものごとに執着せず、飄々(ひょうひょう)と生きること、それが「雲水」。

「すべてのことはあたりまえではない」という言葉を胸に刻みたいですね。

院 長