ニュースレター 2021 11月
小さな子どもを見ていて感じますことは、禅語にあります、
・「遊戯三昧」(ゆげ ざんまい)という言葉です。
無心に、夢中になって遊ぶ姿のことです。
・ 他人の目を気にせずに、
・ 見られていても気にせずに、
・ その遊びと、同化・一体化をしています。
その姿こそは、禅の境地と深く関係します。
遊戯は、楽しんで遊ぶこと。
三昧は、集中することの先に在る極楽の心境です。
では、大人にとっての遊戯三昧とは何か?
自分の好きなことだけをして、夢中になることではありません。
むしろ、自分が嫌な仕事をすることに、遊戯三昧が起こりやすいのです。
嫌な仕事ほど、終わる時間を気にするものです。心中であと何時間と、数えたりするものです。しかも頻繁に。
そして時間限定だからこそ、早く終わらせたいと考えて、集中することが可能です。
すると、嫌な仕事であっても、懸命に集中
することで、遊戯三昧は可能なのです。
・ 好きなことを楽しむのでは無くて、
・ 嫌なことも、Doすること自体を楽しみ、成り切ること。
この世では、自分の好きな仕事だけをして楽しんで生きることは、人には難しいのです。
どんなに好きな内容の仕事でも、継続する内に、それが変わります。
人は無意識でいれば、仕事の内容は好きでも、継続自体に何かの負担と苦痛を感じやすい生き物なのです。
そこで、無意識ではなくて、意識的に仕事に「成り切る」ことを心掛けます。
そうしますと、その「継続」は、すること自体を楽しむという自動運転が起こりやすいのです。
その先に、遊戯三昧が在ります。
これは仕事以外にも、勉強でも、夫婦生活でも、「成り切る継続」が出来れば、その先に新たな境地・遊戯三昧が存在します。
どんなに仲が悪かった夫婦でも、嫌々でも半世紀以上も一緒にいれば、そこに「夫婦に成り切る継続」と、死別してから気付く遊戯三昧が存在します。
夫婦共に生きている時には分からない遊戯三昧が、自分なりに誰にも在ります。
有名な禅僧の書や絵は、昔からとても人気がありました。
その中には、禅僧が雀(すずめ)を描けば、絵から雀が飛び出たという逸話もあります。
禅僧が、雀に「成り切って」描けば、そういう表現をしたくなるほど本物を表現します。
そこには遊戯三昧が起こっていたと言えます。
嫌なことも、無心に成り切ってする内に、新たな境地を見出すかも知れません。
今に出来ることをしていない自分だから、未来が不安に成る
「看々臘月尽」(みよみよ ろうげつ つく)です。
臘月(ろうげつ)とは、十二月を表す季語です。
看々(みよみよ)は、「良くよく見なさい」という意味です。
全体の意味は、もう、見る見る内に、あっと言う間に12月ですよ。
同様に、人生も、あっと言う間に終末が来ますよ。
だから、今日、今の出来ることは、して行きましょう。と解釈します。
この禅語から思い出すのは、哲学者・ニーチェ( 1844年〜1900年)の言葉です。
「過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える」
今という時は、過去からの影響も有るが、自分の未来からも、影響が来ている。
と解釈します。
社会不安が何だかんだと言われていましても、今の自分が安心していれば、未来の自分も安心していると思って良いそうです。
いいや、今の自分は何となく不安感が消せない、と思うならば、
未来の自分が、今の自分に対して改善点を伝えようとしてくれている。
と解釈するのも良いそうです。
でも安心して欲しいことは、何かを伝えようとしてくれている、未来の自分が存在していることです。
未来にも自分が居ると思って良いそうです。
そして、何となくの不安感が消えない時は、どうすれば良いのか?
それが、今回の禅語、「看々臘月尽」がヒントに成ります。
心配する内に、あっと言う間に未来は来ますよ。
だから、今に出来ることをして行けば、大丈夫。
今に出来ることをしていない自分だから、不安に成る。
これを禅語は教えてくれています。
皆様の生活の参考になれば幸いです。
院 長